平安時代から歌に詠み継がれている布引の滝

 文献に布引の滝が記載される最初は平安時代初期の『伊勢物語』で、次いで『栄花物語』『平治物語』『源平盛衰記』にも、当時の貴人らが京都から滝を見に来たことが記されています。その後も慶安三年(一六五〇)の写本『兵庫須磨名所記』、延宝八年(1680)の『福原鬢鏡』、宝永七年(一七一一)の『兵庫名所記』、明和九年(一七七二)の『播磨巡覧記』、天保四年(一八三三)の斉藤拙堂による紀行文『観曳布瀑遊摩耶山記』においても古くからの名勝として取り上げられています。
 また布引の滝は古くから大峰山入峰者の修験道の行場として使われ、文武天皇初年(六九七)頃役小角(尊称:役行者)により行場の管理のため滝勝寺(滝寺とも)が滝の近傍に創立されたと伝わっています。今の滝勝寺はかつて熊内八幡社の背後より北方の字東山(また観音山)の山腹にあったりました。これは滝勝寺蔵版の明治十年代作と考えられる布引の滝周辺を描いた版画(下)においても確認でききます。
 明治5年に布引の滝周辺一帯を遊園地(今でいう公園。当時まだ公園という場所が日本になかったので遊園地と呼びました。東遊園地も同様です。)として整備した際、平安時代から詠み継がれてきた36歌が、歌碑として設置されました。平成になってこの遺構の調査が行われ、現在もその一部を見ることができます。

日本で公園が生まれるきっかけとなった神戸布引遊園地

 江戸時代の寺社境内地や城址などが、明治時代になって、それまでにない公園という役割を与えられ保護されることになり、後に国定公園になるなどして自然豊かな日本の風景が現代まで維持されることに繋がってきいきます。最初にこの公園の制度化を定めたのは明治6年の太政官(明治政府)布達ですが、その制定には、日本の他の地域では見られなかった、外国人と日本人が混ざり合って住んだ神戸の雑居地において、公園を求めて活動した外国人と日本人がいたことがきっかけとなっています。

若林秀岳「摂津国布引滝図 布引山滝勝寺蔵版」(明治10年頃か)に着彩(原画提供:前田康男氏)

 布引遊園地の敷地には官林が含まれていたため、住民と兵庫県との交渉は、大蔵省と兵庫県との交渉へと発展し、大蔵省が公園というものの必要性を認識するきっかけとなりました。これが大蔵省から太政官への公園設置の進言へとつながり、これを受けて太政官は日本全国に公園設置を布達します。
 後に東遊園地となるクリケットグランドを求めた外国人に対して、日本人は物見遊山の場として布引遊園地を求めました。外国人と日本人が求めた公園の違いが好対照をなしていますが、両者が共に旧生田川(現フラワーロード、古くは滝道と呼ばれた)沿いに位置している点も興味深く、山、都心、海を繋ぐ神戸の中心軸の風景形成に示唆を与えます。

物見遊山の行楽地として布引の滝を観にくる観光客で茶屋が賑わった

 明治5年に開園した布引遊園地内には、桜や梅が植樹され、公園内には54箇所の土地が分譲され、茶店や土産屋が並びました。当時の外国人向けの観光案内書には、神戸を代表する観光地として、布引の滝と共に遊園地内の茶店が紹介されています。
 その後、私設の公園だった布引遊園地は、経営難で閉園しますが、開園に合わせて兵庫県から分譲された土地は、川崎造船所(現・川崎重工)創業者の川崎正蔵の手に渡るなど紆余曲折を経て、現在まで公園内の民有地として残ります。
 明治7年に描かれた錦絵には、当時の賑わいが描かれるとともに、眼下に広がる風景も描かれていいます。停泊中の黒船、明治4年に移設された新生田川、明治7に神戸大阪間で開通した鉄道を煙を出しながら走る汽車も見えます。
 茶店は滝の周辺だけではなくて、神戸港が一望できる南側斜面にも多く点在していました。錦絵に見るような近代化する神戸の眺望を楽しむ行楽スポットとしても人気を博していたようです。

「摂州神戸布引滝より海岸を見る図」二代長谷川貞信画 明治7年頃 神戸市立博物館蔵 
Photo : Kobe City Museum / DNPartcom

都心に近く、自然環境、歴史環境が豊かな場所として再認識

 現在のANAクラウンプラザホテルの辺りにはかつて、川崎造船所(現川崎重工)の創業者川崎正蔵の本宅や、布引の滝と人気を二分したと伝わる布引温泉がありました。川崎家本宅の敷地内には美術館、茶室や牡丹園が併設され一部は市民に開放されていました。しかし残念ながらいずれも昭和13年の阪神大水がで失われてしまいました。
 新神戸駅北側の布引遊園地にあたる場所には、川崎造船所創業家の菩提寺として明治39年に建立された禅寺の徳光院や、明治33年に建設された布引五本松ダム関連の上水設備、大正元年に設置された川崎造船所創業者川崎正蔵の記念碑の遺構がいまも残ります。川崎正蔵の記念碑というのは、台座付きの高さ三メートルの青銅製の銅像のことで、フロックコートの正装で右手に洋書を持ち左足を上にして椅子にもたれ、はるか西南の方にある川崎造船所を見下ろす格好となっていました。この銅像は戦時中の金属回収により消失したが、台座は放置された状態であるが現在も残っており、登山道脇のフェンス越しに覗くことができます。この台座は屋根付きの建物で、東京国立博物館や愛知県庁舎、東京の第一生命館などの設計で知られる建築家の渡辺仁の設計による正面に四本の列柱を持つ歴史主義様式の建築です。布引五本松ダムの上水設備は、水道橋の砂子《いさご》橋が手の込んだ造りとなっています。こちらも他の上水設備と共に国の重要文化財となっていますが、赤煉瓦に御影石の白いボーターが入る当時のロンドンや神戸で流行したデザインの建造物で現在でも見応えがあります。当時、橋のたもとには写真館があり、橋をバックに記念撮影した観光客が多かったようです。
 神戸の歴史を発信できる施設がこれほど都市心近くに、しかも豊かな自然環境と共に残っていることは大変貴重だと再認識させられます。

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